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HOME > 大町市 > 10067 若一王子神社

にゃくいちおおじじんじゃ

若一王子神社

祭神
伊弉冉尊(いざなみのみこと)
仁品王(にしなおう)
妹耶姫(いもやひめ)
若一王子(にゃくいちおうじ)
鎮座地
〒398-0002 大町市大町2097
由緒
本神社は垂仁天皇の御代に仁品王が社を建て伊弉冊尊を奉祀し、後にこの地方の人等は此の地の創始の神として、仁品王、妹耶姫の御二柱を崇敬のあまり合祀されました。降って仁科氏安曇郷(安曇野)を領して居住すると、崇敬すること大変深く嘉祥2年(849)に創建がなされたと伝えられております。
仁科家が累代社殿の修造を加えて来ましたが、仁科盛遠宿禰が遥々と熊野権現(熊野那智大社)に詣で第五殿に祀る「若一王子」を勘請してより、若一王子の宮と称されました。代々領主の崇敬益々篤くその後屡々造営修理が加えられた安曇野の古社であって、特に松本城主の崇敬篤く現在の本殿は戦国末期の弘治2年(1556)に仁科盛康によって造営され、更に江戸初期の承応3年(1654)社殿の大修造がなされ、その時附された自紋は今尚現存しています。
当初若一王子権現と称しましたが、維新の際現社号に改められ、昭和6年に県社に昇格、昭和51年には別表神社(旧官国幣社格)に加列され、名実共に安曇の里の大社にふさわしき御神徳の光被益々にして遠近の崇敬の的となっています。
御本殿の様式は四隅に柱を立てているだけの1間社で隅木入春日造りであります。拳鼻を幾重にも付けていること、各種の組物の形が重厚であること等々、この社殿は比類希にして、荘厳で複雑な架構法が特色で旧条例による国宝(昭和6年3月列格)にされました。昭和30年からは重要文化財の指定を受けております。
現在の拝殿は伊勢神宮第60回式年御遷宮による内宮外玉垣南御門他の神宮社殿の譲与を受け旧拝殿を幣殿となし、その前に新設されたもので、昭和50年の建立にして檜の香も芳しい。観音堂は拝殿と廊下でつながれている茅葺の建物で宝永3年(1706)に建立され、仁科33番札所巡りの第1番札所になっている。11面観音を本体とし、昔から火不見(ひみず)の観音様といわれ火災除けの霊験あらたかである。現在は祓殿として使用されている。三重塔は三間三層の柿葺(こけらぶき)宝永8年(1711)に木食故信法阿の観進によって建立されたものであり、江戸時代の建物としてはよく均斉がとれ、蟇股の人身獣面の十二支の彫刻はあまりにも有名にして他に類を見ない。本神社の例祭神事の流鏑馬は鎌倉の鶴岡八幡宮、京都の賀茂神社と共に、わが国の三大やぶさめの一つとして名高く、仁科氏によって伝承されてきた古い伝統と由緒を誇っている。殊にかわいい子供達が射手となるのが特色で町内を一巡練り歩き、境内神事に至る5時間にも及ぶ優雅な絵巻は全国にも比類なき貴重かつ市民の誇る民族資料である。承久3年(1221)仁科盛遠が後鳥羽上皇の院宣を奉じ従士を集めるため流鏑馬を神前に奉したのにはじまる。現在の射手は各町より10騎出場し、夫々両親が揃い、近親者に不幸のなかった7歳から9歳位の子供が選抜される。射手は、狩衣を着け、手袋、行袴等いわゆる射手装束に身を固め、太刀を佩き扇をさし、重藤の弓をもち、箙には征矢をさし、綾蘭笠を被け騎馬し、昔ながらの服装を着て町内を一巡し、神社の境内に3ヶ所の的に矢を射て豊作を祝う。馬には、口取役、うちわ役、笠役、後衛役、弓持役、介添役等がとり囲み、威勢をつける。流鏑馬に続いて各町からは舞台が6台出て、それぞれの囃子方が10名位が揃いの衣装で乗り込み町内を一巡後神前に囃子を奉納する。舞台は江戸時代からの文化的価値のあるものであり、中でも大黒町の舞台は県宝の指定を受けている。囃子方は伝統的に代々伝わった各町毎に違った囃子を奏し、神前に奉納する本囃子は森にこだまして各舞台にゆれる提灯と呼応し壮厳を極める。

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