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支部名 諏訪支部
宮司名 有賀 寛典
神社名 洩矢神社(もりやじんじゃ)
鎮座地 岡谷市川岸東1丁目12
祭神名 洩矢神
例祭日 10月 第3日曜日
由緒 旧橋原村の産土神明治5年11月村社となる。
諏訪大明神画詞(えことば)延文元年(1356)によれば昔諏訪には先住の国津神の洩矢神がおられた。そこへ建御名方命(諏訪明神)が侵入されようとした。川岸の地で洩矢神は鉄の輪を建御名方命は藤の枝を持って争ったが洩矢神は命の稜威に服した。その時建御名方命は持っておられた藤の枝を投げた処その枝は根づいて繁茂して藤洲羽の森となったのが現在の荒神塚、藤島神社(三沢区)である。
洩矢神は建御名方命に服属しその最高の職神長官となり建御名方命を助けて諏訪の地の開発につくされた。氏子は洩矢神の御神徳をたたえるために天竜川をはさみ藤洲羽の森の対岸の地に社を建て洩矢神を祀った。これが洩矢神社の始めである。
神裔洩矢神には1男1女があり女は多満留姫といい建御名方命の第2子出早雄命に嫁し、男は守屋神といいその子孫は茅野市宮川高部(たかべ)に住み神長官を代々世襲した。藩主の崇敬洩矢神社の藤と三沢区の藤島神社の藤とが天竜川の上でからみ合う程繁茂していた寛文年中(1660から1773)諏訪藩主が、蛍見物のとき邪魔になると云うことで切り払うことを命じたが神罰を恐れて誰一人伐る者がない。その時新屋敷の嘉右衛門という力自慢の男が、自分に山役二人の役料をくださるなら伐りますと申し出たので伐らせた処間もなく気がおかしくなってしまった。
藩主には祟があったので新たに祠を城内で造って奉納することにした処大きすぎて大手門を出ることができない。やむなく少し縮めて奉納されたのが現在の洩矢神社の本殿である。その時現在地に遷座したその後は藩主の崇敬があつく上田高1石9斗4升1合3勺の神事免が奉られ例祭を藩主が行なったが明治4年廃藩と共に神事免を上地し例祭は氏子で行なうようになった。
神徳祈願に対しては真に霊験あらたかで御神徳はふかく厚く諸々の祈願を篭むれば霊験は立ちどころに表れ、特に産婦などが底抜けの柄杓を献納し祈願すれば安産間違いなしといわれている。
式年御柱祭古来諏訪大社の御柱祭より7日下りの下社の御柱祭と同日に行なった。これは他の神社と全く違っているこのことは洩矢神社と上社との縁故がいかに深いかを物語るものである。ちなみに諏訪大社の織旗と同じ太さを許されている。しかし近年では種々の事情から他の日を選んで行なっている。
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