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大洲七椙神社
支部名 飯伊支部
宮司名 酒井克元
神社名 大洲七椙神社(おおしまななすぎじんじゃ)
鎮座地 下伊那郡松川町大字元大島1992-1
本社祭神名 誉田別命(ほむだわけのみこと)
建御名方命(たけみなかたのみこと)
天照皇大神(あまてらすすめおおかみ)
例祭日 春 4月第1土日、秋 10月第1土日
由緒 大洲七椙神社社叢(しゃそう)
本社は元大島禰宜平に鎮座し、旧上新井村の産土神で誉田別命(ほむだわけのみこと)建御名方命(たけみなかたのみこと)天照皇大神(あまてらすすめおおかみ)を祭神とし、現在は上新井区の鎮守である。
社伝によれば平治年中(1160年)片切氏の分流大島氏が大島郷に分知し、この地に居館を構え、大島(現在の古町、上新井)を本郷とし、福与、部奈、小和田(中川村)を大島領として統治した際、大島郷の鎮守として奉祀されたものである。八幡大菩薩を御神体とし、これに日天子、月天子の両小神像を配しているが、日天子は大日如来をあらわし、月天子は阿弥陀如来をかたどったものであり、いずれも正安元年(1300年)の作で鎌倉時代後期のものとして優作である。南信濃源氏の支流である。大島氏が源氏とゆかりのある八幡大菩薩(誉田別命)を自家の氏神として奉祀信仰したものであり、又この地方は、古くから諏訪勢力の波及の濃厚な地方であり、諏訪信仰は相当根強いものであったから、諏訪明神を祀ってある神聖な神域へ大島氏がこの地を領有するに及んで新たに八幡大菩薩を併せて奉祀し自家の鎮守としたものと考えられる。このことについては、神社所蔵の宝暦13年9月(1763年)の棟札に「大日本信州大島新井村鎮守、奉複再建諏訪大明神社一宇」とあることによっても諏訪明神が奉祀されていたものであろう。なお古文にある古地図には、本社を「大宮」と記してあるが、信州の場合では大宮は諏訪明神を奉祀する社を意味するから当社に古くから諏訪明神が奉祀されていたことが判る。境内は古樹うっ蒼とし殊に老杉7本は近郷に比類のないもので「七椙の森」と親しまれ、段立崖の傾斜地で南北80m、東西凡そ30mの間に昼なお暗い林相をなしており、御神木の7本は何れも樹齢800年から900年に及ぶといわれ、一の杉は目通り5.4m、二の杉が4.9m、三の杉が6.0m、四の杉が6.25m、五の杉が6.2m、六の杉が6.54m、七の杉が4.15mと6mをこえるものが3本、高さは大部分が50mを越える大杉は四十数本もあり、そのほか、新植した杉もよく伸び育っている。
また京都北山の篤林業家山本末次氏は七椙神社の七杉の古木を観察して、この杉を「精英樹」と観察して、神社の許しを得て穂木を採取したこともある。「精英樹」とは一つの森林の中でずば抜けて形、質などが優れている木で材木育種上重要なものであるという意味で、この七椙の森の杉がいかに優れた古樹であるかが判るし、又この七椙の七杉は裏日本系統の杉であることから、なぜこれがこの地にあるのか不思議であると山本末次氏は話しておられた。いづれにしても、この社と共に800〜900年の風雪に耐え長きに亘りこの地方の歴史的変遷を眺めて来た将に名御神木であり社叢と云わざるを得ない。
社殿の左右一対の石灯籠は、明治24年9月に建造されたもので、大きさにおいては当時郡下随一といわれ、また社殿の造営は宝暦13年に、拝殿は明治44年に社務所と共に改修を行い現在に至っている。近年において社務所及び石玉垣の整備などを行い、そのそばには端麗な手水舎があり、その深厳なることは実に見事であり、古杉の風格と大島氏の往古をしのぶにはまことにふさわしい社であり社叢である。
昭和57年4月には松川町文化財指定となる。
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